カンボジアの歴史を語るのに欠かせないのが、ポルポトです。ポルポトはカンボジアの元首相で、彼の行った政治はカンボジア国民たちに大きな傷跡を残しました。今回はポルポト政権の歴史と、歴史に関わる観光スポットの「キリングフィールド」と「トゥールスレン虐殺博物館」についてご紹介していきます。
ポルポトによる大虐殺
カンボジアの親米派の軍人であったロンノルによる政府軍と、ポルポトによるクメール・ルージュを含んだ連合軍の戦争は、1970年から5年間続きました。結果、連合軍が勝利をし、1975年4月17日にポルポト率いるクメール・ルージュが首都プノンペンを占領し、ポルポトによる恐怖の支配がはじまりました。
ポルポトが目指した国とは?
ポルポトは、中国の毛沢東の影響を受けていたこともあり、原始共産主義の国家を目指していました。
原始共産主義とは? 健康な全ての人間は食料の獲得に専念し、狩猟や収穫により産み出されたものを全員が共有するという考え方
そのため、お金ではなく農業や農作物に重きを置かれるようになりました。ポルポトは銀行や紙幣の廃止、都市部に住んでいる住民を強制的に農村部に移動をさせ、強制的に農業に従事させるなど行いました。
移動時には、車やバイクなどを使うことはほとんどできず、徒歩で数日かけて移動したそうです。強制的に農業で働かされても、収穫の多くは中国に輸出されたため、国民は満足に食事もできませんでした。その結果、飢餓や栄養失調で亡くなる人も多くいました。
拷問・虐殺の対象になった人
政治家、軍人、教師、医者、僧侶、俳優、歌手、外国語が話せる人などは、国の統一を妨げる「病原菌」として、拷問や虐殺の対象になりました。中には、メガネをかけている、話し方が上手というなどというだけで知識人と見なされ、また手がきれいな人、顔が整っている人は、農業を一生懸命やっていないと見なされるなど、いい加減な理由で虐殺される人もいました。
また、虐殺されるだけでなく、本や雑誌、映画やレコードなども国中から集めて捨てられ、国から文化を排除していきました。表面上は、国民に農業に専念させるためという理由でしたが、本音は国民から信頼もあり、知識のある人たちが結託して、国民を巻き込んで反乱を起こすリスクを恐れていたため、知識人や文化の排除を行っていたと言われています。
子どもがスパイに?
ポルポトは、子どもたちの活用をはじめました。子どもはまだ知識もなく無垢なため、自分の考えや教えをたたきつけやすかったそうです。子どもを農村に行かせて、ポルポト政権の悪口や仕事の文句を言っている人たちを見つけたら、密告するようにスパイ活動を行わせました。
そして、そういった人たちの拷問や虐殺も子どもたちが担当しました。更に、知識人を虐殺した結果、国に必要な軍や医者がいなくなり、それすらも子どもにやらせていました。子ども医者や子ども軍。まともな知識をもっていない子どもが従事した結果、さらに国民は命を落とすことになります。
ポルポト政権の終わり
1978年12月、ベトナム国内に避難していたカンボジア人によってつくられた、カンプチア救国民族統一戦線がベトナムの援助を受けて、カンボジアに侵攻していきます。カンボジア国内の軍(カンプチア革命軍)は軍人を虐殺してしまった結果、まともに戦争できる軍は形成されず、わずか2週間で半分以上の軍人が逃げ出したり、亡くなりました。
1979年1月7日には、プノンペンにベトナム軍が入り、カンボジア人民共和国が成立したことで、ポルポトの支配は終わりました。ポルポトの行ってきた行為は、カンボジア当時の人口の3割にあたる、170万人の命を奪い、カンボジアの識字率を大きく下げたり、70年代よりも前の文化や歴史的資料が失われ、国の命も奪ったとも言えます。
キリングフィールド
キリングフィールドはその名前の通り、虐殺が行われたり、亡くなった方が埋められた場所です。埋められたと言っても、お墓のように丁寧に扱われたものではありません。掘った穴の中に無造作に放り投げられるのです。
こういったキリングフィールドは、当時カンボジア国内に約300か所ありました。現在は、プノンペンのキリングフィールドが1つの有名な観光地として、よく訪問されています。
観光情報:入場料・所要時間
プノンペンのキリングフィールドには、プノンペン中心部からトゥクトゥクで約1時間ほどかかります。
入場料は3$です。
遺跡とは異なり各所に英語看板があり、当時の説明の記載があります。英語でもOKな人は個人で行けると思います。日本語の詳細な説明がほしい、歴史的な背景もしっかり知りたい方は、ツアーでの参加がおすすめです。
ポルポト政権当時を感じてほしい場所
プノンペンのキリングフィールドの特徴は、2つあります。1つめは慰霊塔です。犠牲者を弔う、美しい慰霊塔です。慰霊塔内には当時の説明と人骨があります。カンボジアの歴史を知り、犠牲者にやさしい祈りをささげてほしいなあと感じます。
2つめはキリングツリーです。ミサンガがかけてあり、一見きれいな木に見えます。しかし、この木は赤ちゃんの処刑に使用されていました。母親から無理やり赤ちゃんを引き離し、赤ちゃんの両足を持って頭を思いっきり、この木に殴りつける。悲しい処刑の場でした。
トゥールスレン虐殺博物館
トゥールスレン虐殺博物館はプノンペンにあります。トゥールスレンは別名「S-21」とも呼ばれています。もともとは高校の校舎だった場所で、ポルポト時代には拷問・虐殺が行われていました。トゥールスレンでは、約2年9か月の間に14,000~20,000人ほどの人々が収容され、生き残って帰ってこれたのは、たったの8名でした。
館内には、トゥールスレンで処刑された人々の写真、処刑の様子の絵・写真、拷問に使われていた道具など、当時を彷彿させるリアルなものが多く残っています。
観光情報:入場料・所要時間
トゥールスレンは、プノンペンの王宮(ロイヤルパレス)から車で約15分の位置にあります。入場料は18歳以上は5$、10歳以上は3$です。オーディオセットを借りる場合には、別途3$必要となります。
観光方法やルール
キリングフィールドと同様に、ガイドをつけたほうが歴史的な背景をしっかりと理解することができますが、トゥールスレンには当時拷問や処刑に使用されていた衝撃的なものが多く残っています。そのため、ガイドがなくてもいかに残虐で悲しい場所だったかは、充分感じられると思います。
また、以前トゥールスレンでは館内の撮影について規制がありませんでしたが、近年館内では撮影禁止の看板が立っています。ルールを守って見学をしましょう。
カンボジアの歴史を学ぶために、キリングフィールドとトゥールスレンをセットで観光するのもおすすめです。2か所の観光の場合、半日ほどあればできます。ただ、どちらの場所もショッキングなものを見たり知ることが多いので、昼食の時間はさけて観光するのがいいでしょう。
トゥールスレンで行われていた拷問
1979年1月7日にベトナム軍がプノンペンを制圧し、翌日1月8日にベトナム軍はこのトゥールスレンを発見しました。発見時、ベッドに拘束されたままの14名の遺体がありました。遺体は酷い拷問に加え、暑さにより腐敗や損傷が激しく、強烈な異臭が発見時には漂っていたそうです。そのため、トゥールスレンには14名を弔う棺が屋外にあります。白くきれいに整備されています。
拷問の方法としては、
- 服を着ることは許されず、全員全裸
- ルールを破れば、電気ショック5回
- 鞭で打ったり、複数で殴る蹴るの暴力
- 爪はがし
- 糞尿をためた壺に何度も顔をつけられる、水責め
- 生きたまま体を切られ、解剖
- ヤスデに体をかませる
- 1日3袋以上の採血をされる
など、人間がすることとは思えない、ひどく残酷なものが行われていました。
床は黒くなっている部分が多く、拷問時や死ぬ際に出た血が消えることなく今も残っています。
拷問を受けるよりも、死んだ方が楽だと考えた人が多かったそうです。そのため飛び降りて自殺するものが相次ぎました。それを防止するために、建物には有刺鉄線が張りめぐらされています。
ボパナ:当時の拷問・処刑の書記
トゥールスレン虐殺博物館には、当時を書き記した書物の販売もあります。その中で有名なものが「BOPHANA」という本です。これは、ポルポト政権におけるボパナという女性の物語です。
ポバナはシタという男性と幸せな結婚生活を送っていました。しかし、ポルポト政権が始まり生活環境が激変していきます。シタは僧侶であったため、虐殺の対象になりました。そのため、生き延びるためにシタは身分を隠して、クメール・ルージュの一員になりました。
ボパナはプノンペンから地方に強制移住させられ、農業に従事します。ボパナとシタは離れ離れですが、手紙を送りあい、お互いを励まします。しかし、ボパナがうっかり手紙で英語を使ってしまいました。当時外国語を使える者も拷問や処刑の対象でした。ボパナとシタは捕まり、バラバラの地で処刑を受けることになりました。シタは捕まった後すぐに殺されました。ボパナは、トゥールスレンで拷問を受けることになりました。
彼女はトゥールスレンでしばらく拷問を受けたのち、たった22歳でこの世を去ります。
22歳。本当に若すぎます。当時幸せや希望に満ち溢れた若者が多く亡くなったと思うと胸が張り裂ける思いです。こんな時代が二度と来ないよう、しっかり語り継がれていってほしいなと強く感じます。
ポルポト時代を題材にした映画
過酷なポルポト時代を題材にした映画もいくつかあります。
キリング・フィールド
1985年に日本で公開されました。アメリカとイギリスが合同で制作をしました。カンボジア内戦を取材したニューヨークタイムズの記者シドニー・シャンバーグの体験に基づいた実話です。
地雷を踏んだらサヨウナラ
日本で制作され1999年に公開されました。報道写真家の一ノ瀬泰造の実話になります。カンボジアの内戦が激化する中で、アンコールワットを撮影することを目標に動く、一ノ瀬氏のリアルでスリリングなストーリーです。
シアター・プノンペン(THE LAST REEL)
カンボジア人女性が監督を務めた映画です。日本では2016年に公開されました。実話ではありませんが、ポルポト時代が背景にある作品です。現在を生きる女子大生が、映画館で古い恋愛映画を見ます。そこで主演をしていたのが、彼女の母でした。しかしそのフィルムは、最後のシーンが切り取られています。最後のシーンの真相を知るために、カンボジア内戦時代を生き抜いた女優であった母や軍人であった父の過去を探るストーリーです。
ポルポトの最期
ポルポトは1979年1月にベトナム軍にプノンペンを制圧されたあと、亡命を続けていました。世界がカンボジアに対してさまざまな平和的なフォローをしている中、ポルポトはついていくことができず、ジャングルで孤立していったと残っています。最終的には、ジャングルの中で、1998年4月に心臓発作で亡くなったと記録されています。ポルポトの死には不自然な点も見られたため、他殺の可能性もあるそうですが、遺体はすぐに燃やされたため、真実は謎のままです。裁判で裁かれることもなく、死んでいったのは本当に残念です。生きて自分の罪を認めてほしかったです。
ポルポトの元幹部らについは、2022年に、ようやく1名の元幹部(91歳)の終身刑判決が確定しました。他4名の元幹部も起訴されていましたが、裁判中に亡くなりました。
まとめ
カンボジアの歴史には、今回ご紹介した辛く悲しいポルポト政権の時代がありました。国民の大量虐殺は絶対にあってはならないことです。現在、1月7日は「虐殺政権からの解放の日」ということで祝日になっています。この日にはプノンペンで平和に関するセレモニーが行われます。
カンボジアは遺跡のイメージが強いですが、プノンペンには歴史を学べるスポットもあるので、興味のある方はぜひ訪れることをおすすめします。